岩屋城~高橋紹運公と763名の武士~

筑前~筑後の旅 史跡を訪ねて

2020年9月26日

戦国時代末期、九州統一を目指す島津氏とそれに抗う大友氏。豊臣秀吉をして『乱世の華』と称えられた、高橋紹運公以下、763名の武士が眠る岩屋城へ。

峠道を中腹まで峠道を登っていき、路肩に2台ほど駐車できるスペースがあるのでそこに車を停めて。

路肩に太宰府市の案内板
細い山道を下っていく

ガードレールが切れているところがあり、入口に小さな看板と、紹運公の墓所謂れを記した案内板があり、3分くらい細い山道を下って二の丸跡の方へ向かう。

ひっそりと、しかしきちんと整理された墓所が木々の中に現れる。
墓所の所有者より、私有地であり墓参以外の立ち入り禁止と供物を持ち帰るように記された立札がある。
紹運公の討死にから430年以上が過ぎた今でも縁者により管理され、岩屋城落城の7月24日には法要も営まれるとか。紹運公の人柄がしのばれる。
背筋を伸ばして墓参

二の丸跡にある墓所を後にして、来た道を引き返し。
道路を渡った反対側に岩屋城本丸跡入り口がある、墓所入り口はちょっとわかりにくいがこっちはわかりやすいかな。
山道というほどでもないが、石段を3分ほど登ると岩屋城本丸跡。

本丸跡につくと『嗚呼壮烈 岩屋城址』の石碑が目に入る。城兵たちの子孫がのちに建立したものと聞く。
本丸跡からは、大宰府から大野城、筑紫野が望める。まさに要害の地。
眼下にみえる観世音寺を中心に展開する島津勢5万を眺めて、紹運公は何を思ったのだろうか。

生者必滅 盛者必衰は世の流れ
主家の盛んなる時 忠励み功名顕わす者ありといえども 
主家衰えたる時に変わらず一命を捨てる者は稀にて候
貴殿も島津家滅亡の時 主を捨て命を惜しまれるか
武士足る者 仁義を守らざるは鳥獣に異ならず候

島津方の降伏勧告に対し、紹運公はこう答え味方はおろか敵からも喝采を浴びたとか。
とはいえ、島津勢5万に対して、岩屋城は763名。2週間余りの攻防戦の末、紹運公は切腹、城兵もことごとく討死か腹を切って全員玉砕して果てたという。
島津方の被害も甚大で、戦死3千余、負傷2千余となり、この戦いが黒田官兵衛を軍監とする毛利・小早川主体の豊臣方先遣隊の門司城入城を許し、島津氏の九州統一を阻止した一因となった。

紹運公の辞世の句は、岩屋城の門扉に2首記されていたという

流れての 末の世遠く埋もれぬ 名をや岩屋の 苔の下水
屍をば 岩屋の苔に埋めてぞ 雲井の空に 名をとどむべき

また、具足の引合せに島津方の総大将、島津忠長に宛てた手紙をしたためていた。
それには、

是一途、義によって候
諒承願い奉る

これを読んだ忠長は、床几から崩れ落ち

「たぐい稀なる勇将を殺してしまったものよ。この人と友であったなら
 いかばかり心涼しかったろう。弓矢を取る身ほど恨めしいものはない。」

となげいたという。

こんな義の人、高橋紹運公の居城を一度訪れてはいかがですか。

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